渡辺和博さん
最初に触れた渡辺和博さんは、月刊漫画ガロ誌上に掲載された渡辺さんの漫画だった。
何とも判断のしようのない、おや?っといった印象の作品であった。渡辺さんの絵は、あとになるほどヘタウマの度合いを強めていくが、初期の段階では、下手とか上手いとかの範疇からは少し外れたところに位置していたように思う。熟練したプロのイラストレーターなら、ソレを引くのにちょいと勇気のいる、大胆な描線だった。しかし、その後、暴力的とも思える勢いで矢継ぎ早に発表された一連の作品群に接するうちに、僕らは、それらを、ひとつのジャンルとして認めざるを得なくなっていく。その結実が、熊猫人民公社ではなかったろうか。ほとんど意味のないストーリー、大胆な省略とデフォルメを施した斬新な絵柄、そして何よりも新しかったのは画面一杯にちりばめられた雑多なアイテムの数々、それらは、何の脈絡もなく登場し配置される、半ばカタログ的な情報の洪水を思わせた。渡辺さんは、優れた漫画家ではあったけれども、もともとお話のヒトではなかった。余計な情緒を一切排除した、ドライな感触がまさに現在的であった。
神保町にあった王国、旧青林堂にはじめて足を踏み入れた時の驚きは、忘れられない。壁という壁、床という床、狭くて急な階段の脇々に、在庫なのか返本なのか、正体の知れない漫画本が、所狭しと積み上げられていた。当時、名古屋に住んでいた僕は、作品ができる度に東京見物を兼ねて、青林堂を訪れていたのだ。木造モルタル建て、耐震構造などとは全く無縁な存在にある編集室で、南さんに原稿を見てもらっていた時、野球帽を被った(確か被ってたと思うけど、少し記憶が怪しい)渡辺さんは、隣りの机で黙々と版下作りに精を出していた。渡辺さんは、南さんが所用で席を外したりすると、一言二言僕に声をかけてくれ、南さんが席に帰ってくるとまた、無言で自分の仕事に戻るのだった。渡辺さんは、とてもシャイに見え、その頃から年齢不詳のようなところがあった。どこか少年のようでもあり、且つどこかオッさんのようでもあった。
2度目に会った時、渡辺さんは、南さんの後任として編集長の座に着いていた。すでに、権力者の貫禄を持ち始めていた。渡辺さんは、僕の新作を読んで、ストーリーのことには一切触れず、絵をとても褒めてくれた。僕が赤瀬川源平さんのように描きたいんです、というと、あなたの絵は、赤瀬川さんよりずっと上手いですよ、と励ましてくれた。その次の上京の時も、渡辺さんは、僕の描いた難解な上に単調で面白くない8ページの作品を、黙って受け取ってくれた。そして、今度はまた、あの女の子が出て来るヤツも描いてくださいね、とそっと優しくいい添えることも忘れなかった。。
これが、全てである。その後、何故か作品は、ガロに採用されなくなり、28才の時、僕は漫画を描くことをやめてしまった。
したがって、それ以降の渡辺さんの成功については、あまりよくわからない。ベスト・セラーになった例の著作も、発売と同時に急いで買ったけれども、お終いまで読み通したという記憶はない。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
何とも判断のしようのない、おや?っといった印象の作品であった。渡辺さんの絵は、あとになるほどヘタウマの度合いを強めていくが、初期の段階では、下手とか上手いとかの範疇からは少し外れたところに位置していたように思う。熟練したプロのイラストレーターなら、ソレを引くのにちょいと勇気のいる、大胆な描線だった。しかし、その後、暴力的とも思える勢いで矢継ぎ早に発表された一連の作品群に接するうちに、僕らは、それらを、ひとつのジャンルとして認めざるを得なくなっていく。その結実が、熊猫人民公社ではなかったろうか。ほとんど意味のないストーリー、大胆な省略とデフォルメを施した斬新な絵柄、そして何よりも新しかったのは画面一杯にちりばめられた雑多なアイテムの数々、それらは、何の脈絡もなく登場し配置される、半ばカタログ的な情報の洪水を思わせた。渡辺さんは、優れた漫画家ではあったけれども、もともとお話のヒトではなかった。余計な情緒を一切排除した、ドライな感触がまさに現在的であった。
神保町にあった王国、旧青林堂にはじめて足を踏み入れた時の驚きは、忘れられない。壁という壁、床という床、狭くて急な階段の脇々に、在庫なのか返本なのか、正体の知れない漫画本が、所狭しと積み上げられていた。当時、名古屋に住んでいた僕は、作品ができる度に東京見物を兼ねて、青林堂を訪れていたのだ。木造モルタル建て、耐震構造などとは全く無縁な存在にある編集室で、南さんに原稿を見てもらっていた時、野球帽を被った(確か被ってたと思うけど、少し記憶が怪しい)渡辺さんは、隣りの机で黙々と版下作りに精を出していた。渡辺さんは、南さんが所用で席を外したりすると、一言二言僕に声をかけてくれ、南さんが席に帰ってくるとまた、無言で自分の仕事に戻るのだった。渡辺さんは、とてもシャイに見え、その頃から年齢不詳のようなところがあった。どこか少年のようでもあり、且つどこかオッさんのようでもあった。
2度目に会った時、渡辺さんは、南さんの後任として編集長の座に着いていた。すでに、権力者の貫禄を持ち始めていた。渡辺さんは、僕の新作を読んで、ストーリーのことには一切触れず、絵をとても褒めてくれた。僕が赤瀬川源平さんのように描きたいんです、というと、あなたの絵は、赤瀬川さんよりずっと上手いですよ、と励ましてくれた。その次の上京の時も、渡辺さんは、僕の描いた難解な上に単調で面白くない8ページの作品を、黙って受け取ってくれた。そして、今度はまた、あの女の子が出て来るヤツも描いてくださいね、とそっと優しくいい添えることも忘れなかった。。
これが、全てである。その後、何故か作品は、ガロに採用されなくなり、28才の時、僕は漫画を描くことをやめてしまった。
したがって、それ以降の渡辺さんの成功については、あまりよくわからない。ベスト・セラーになった例の著作も、発売と同時に急いで買ったけれども、お終いまで読み通したという記憶はない。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
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