深さ70cmほどの窪みの底にある1cmくらいの隙間に蟹がいるのである。
テトラポットと岩が組合わさった堤防の突端に屈み込んで、その蟹をじっとみている。4匹の蟹は、ハサミを猫の髭のような位置に置いて整列してこちらを見ている。確実に眼が合っている。こちらが手を伸ばすと蟹は奥の方へ引っ込んでしまう。手を下げると蟹はまた整列する。大した蟹ではない。足を伸ばしても15cmに満たない普通の蟹である。先ほど、窪みの底と書いたが、実は本当の底はもっと底にある。テトラポットの壁面とその岩は、蟹のいる隙間を蝶番の軸のような位置にして接している。蝶番の開く角度が大きければ、その下にあるスペースは広くなる。ガッシリ支え合う岩場の下には、細い隙間とは裏腹にとても大きな世界が広がっている。その広さに、軽い絶望のようなものを感じている。蟹は、どこへでもいける。どこへでもいける蟹に対して我々は余りに無力だ。穴の中の水位の上昇で波のきたことがわかる。ここは膠着状態だから、次の穴へ移ろう。おや、明らかに袋小路と思われるスペースへ蟹が入った。咄嗟にそこへ手を差し入れる。しかし、躊躇がある。ワイン・オープナーでコルク栓を引く時みたいに、力が拮抗している。形のないちょっとした恐怖があるのだ。そんな鈍い手を、蟹は楽々とすり抜けていく。気持ちがさざ波のごとく萎えていくのがわかる。
釣人たちが群れている。ほとんど漁師といっても差し支えない風体だ。ライフ・ジャケットを着込んだ一人の老人の浮きに眼をやる。波に揺られている。これを待つのか。モチベーションを上げていこう。あ、遠くで白い魚が跳ねた。と思ったら老人がリールを巻いている。しまった、ボンヤリして浮きを見逃した。糸の先には、灰色の平ぺったい魚がぶら下がっている。あんまり大きくない。お爺さんは、魚をタモに入れたまま海水に浸しておく。
ふと、岩場の穴を覗くと、岩肌を蟹が歩いている。今だ !! 身をよじって手を伸ばす。蟹が走った。腰を浮かせさらに手を伸ばす。さらに、蟹は走る。走って走ってジャ~ンプ、した蟹は、海へポチャン。僕の知らない広い世界へ消えていった。誰にとはなく照れ笑いを浮かべ、周囲を見渡すと、あちこちで家族連れや子供たちが、それぞれ自分の穴を覗き込んでいる。皆そんなに蟹が欲しいのか。何ごともなかったかのように海を見る。10cmくらいの小魚が群れを成して水面に躍り出た。まるで、海の上に畳を敷いたように光っている。漁師の1人が獲物を波で洗っている。30cm以上ある大きな魚だ。砂浜ではフリスビー犬が活躍中、気付くと浜辺の一角にブリーダーが大集合。日もすっかり傾いて、日本中の飼い犬が一斉に排便を始める時間帯に差し掛かっている。帰宅を促すチャイムが鳴る。雲で縞模様になった夕陽が赤い。

蟹は、まだ広い世界にいる。

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